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悼公 (鄭)[とうこう]
悼公(とうこう、紀元前?年 - 紀元前585年)は、鄭の第14代君主。襄公の子。 == 生涯 == 襄公の子として生まれる。 襄公18年(前587年)3月、襄公が薨去したため、子の公子沸(ひ、『春秋左氏伝』では費と表記)が立って鄭君(以降は悼公と表記)となった。11月、公孫申は軍を率いて許に赴き、昨年許から奪った土地を領内に入れて国境を正そうとした。しかし、許の人がこれを襲撃し、展陂(てんひ:許の地)で破ったため、悼公は許を攻撃して鉏任(しょじん)・泠敦(れいとん)の田を取った。これに対して晋が許を救って鄭を攻撃し、汜祭(鄭の地)を取ったので、鄭の同盟国である楚は子反を遣わして鄭の救援に向かわせた。悼公と許の霊公は子反にそれぞれの言い分を訴えたが、子反は「今は判決を下せない」とした。 悼公元年(前586年)、許の霊公が楚に鄭を悪く言ったため、悼公は弟の睔(こん)を遣わし、楚に直訴させた。しかし、鄭の言い分が正しくなかったとして楚は睔を捕らえた。これに対し悼公は晋に赴き、晋と和親した。一方、睔は楚の子反と結託し、子反の取りなしによって帰国することができた。12月、悼公は晋・斉・宋・衛・魯・曹・邾・杞の君主たちと蟲牢(ちゅうろう:鄭の地)で同盟を組んだ。 悼公2年(前585年)春、悼公は晋に赴いて和平が成立したことの礼を述べた。6月、悼公が薨去し、弟の公子睔が立って鄭君(成公)となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「悼公 (鄭)」の詳細全文を読む
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